Saturday, August 26, 2017

囲碁を通して見るAIの足跡

囲碁界において、Deep Learning がAIにもたらした影響は強烈だった。と言っても、そこでどのような情報の選択が行われているかぼくは知らない。モンテカルロ法という乱数の仕組みも、評価関数がどうという話も、正直、仕組みはわかっても、それがなぜ今日に至る革命的な変化をもたらすことになったのか、いまいち理解できていない。

ただ、Google が開発したアルファ碁が囲碁界の巨匠、李世乭に勝利した時に囲碁界が受けた衝撃は、アマチュアの自分も等しく味わったもののはずだった。

つい10年前、AIはアマチュアのぼくから大量のハンデをもらってボロ負けするほど弱かった。19×19の盤上に等しい価値の石が投じられ、しかもそれがコウや死活など複雑なルールの下に働きあうとき、コンピュータが全ての着手を計算して盤上の戦いを勝利に導くことは、(19×19)!のさらに何万倍もの可能性を計算することであり、いくらコンピュータといえどそれには億兆の歳月が必要だった。

したがって、コンピュータは、その計算の範囲を四隅+四辺に分割した。その結果、定石を人間と同等に記憶し最善手を導き出すコンピュータは、人間の棋力に近づいたはずだった。ところが、全局を見て定石の手を抜き、部分的に損な捨て石を軽々とやってのけ、時には地よりも厚みをとり、挙句の果てに本来地がつきにくい中央に広大な土地を見出す人間の脳に、AIは戸惑い、その「最善追求」はなすすべもなく崩れ去った。AIが囲碁で人間に勝つにはあと50年かかると言われたが、それは「もっと先になるかもしれない」という含みを持つ言葉だった。

ところが、アルファ碁が生み出した数々の棋譜は、その50年がいっきに飛び越され、人間の発想の先にコンピュータが到達したことを物語っていた。アルファ碁は「手抜き」を覚え、「感覚の一手」を繰り出し、一見われわれ人間の『常識』から外れた突飛な手を打った。熟練したものだけが身につけられるとされた「勘」は的確なタイミングで再現され、人間の勘が及ばない範囲にまで到達していた。人間が「価値が低い」とみなしていた中央は、AIによってその価値が再発見され、人間はAI から学び始めることになった。

囲碁を知る者にとって、アルファ碁の出現は、言葉で説明される以上のリアリティを持ってAIの飛躍を見せつけられた瞬間だった。

AIが「人間らしさ」を手にした時、コンピュータは、記憶する機械から生み出す機械へと変化した。少なくとも、囲碁界ではそれが起こった。コンピュータがここまで到達する段階で、無数の「人間の棋譜」を学習したのは事実である。それでもなお、AIの存在が囲碁界を大きく揺さぶったのは、それが「人から学ぶことで人を超えた」からではなかろうか。

AIの人間社会への可能性は、指数関数的に広がり始めている。

Friday, November 6, 2015

10年後に活躍する人間を育てるということ

自分が中学1年生だった時のことを思い返す。

スマホはもちろん、携帯電話だって出ていなかった。
いつ買ってもらったのか忘れてしまったが、青シルバーのCDウォークマンが自分の宝物だった。

ぼくはそれで、当時お気に入りだった井上陽水を聴いていた。
ヘッドフォンから流れる「氷の世界」「紙飛行機」とともに、西国分寺まで片道25分間自転車を走らせていた。
目的地はムサシという名前の碁会所。ここでぼくは毎週末囲碁を打っていた。

電車で読む本はシャーロックホームズと囲碁の本。
悪いことはしない。
迷惑をかけない。
恥ずかしがりや。
それでいて我が強く負けず嫌い。

好きな女の子は小学校の時の同級生。
でも学校が違うから、帰りの電車ですれ違うのを願っていた。

好きな教科は英語。
嫌いな教科は特になかった。

夏休みにお父ちゃんと北岳に登り、野草を観察。それを自由研究にしたらずいぶん褒められたっけ。その時が確か人生初の山小屋での一夜だった。

うん、そんなもんだったかな。
あとは、買ってもらった新しい MacBook でゲームをしたり、授業のまとめプリントを作ったりしてたっけ。


その10年後、自分がアメリカに留学しているなんて想像もしていなかった。
大体、そんな人周りにいなかった。(今思えば、10年後なんでそんなこと思い付いたんだろうか笑)

23歳の自分は iPhone 3 と Nokia のガラ携を使いこなし、ネット上でバスと飛行機の格安チケットを手に入れ、旅行先で友達や家族と Skype をし、帰ればネットで調べた論文を読みながら課題をデータで提出。週末は Skype 等を駆使して NPO の活動に参加していた。

こんな生活、想像できなかった。
多分、ぼくが13歳だった時の大人たちも、こんなことができるようになるなんて考えてなかったと思う。

10年で、あっという間に世の中変わってしまう。
そんな世になってる。

江戸時代だったら100年くらいの変化が、10年、いや、もっと早くおこっている。それが今の世界。


考えたらすごいよね。
もともと地球は大地と天と、海しかなかったんだよ。岩石だらけの無機質な星。
そこから、エネルギーを使って動くロボットが別のものを作り出す、そんな時代になったんだ。
すごいよね。


ちょっと話がそれたけど・・・


今教えている中1達。
この子たちが大人になった時に見る世界。

それって、今のぼくらじゃ想像できないような世界なんだよ、きっと。
そんな世界で生活する、さらに活躍する子ども達を育ててるんだよ、ぼくらは。



何が大事なんだろう?



そんなのわかりっこない。
でも、その時にも役立つ力をみつけて、育てないといけない。



本質。



最近自分がよく使う単語。
周りの意見や自分の思考を基にして、できるだけ一方的な考え方を排除することで少しずつ見えてくる物事の本来の姿、性質。

それに敏感になる力というのが、将来、本当に、本当に必要になってくる。
今はそんな風に感じながら子ども達と接している。




人間生活の本質。



それは、信念を通して見えてくるものかもしれない。
あるいは、信念によって作られるものかもしれない。


いづれにせよ、どんな環境でも変わらない、大切なことがら、それを育ててほしい、と切に願いながら、そのために自分ができる最大限のことをしていこう。

Sunday, November 30, 2014

読書の決意

前の記事が1年以上前ですね。
お久しぶりです。

2013年の10月といえば、留学から帰ってきて、色々と思い・考えの歯車が現実とうまく噛み合っていなかった時期ですね。懐かしい思いがします。
今では教員として、半年ばかりではありますが、学校という場で教育の当事者を続けてきました。

さて、少し考えるところがあり、1週間ほど前から「4月1日までに100冊読破」を目標に、読書を始めました。

正直なことを書くと、「100冊」という数字に意味があるかはわかりませんが、一度決意した以上、まずはこれにの向かって本を読んでいきたいと思います。

さて、これにあたって自分ルールを設けました。

①人にオススメの本を聞いて読む。
②10冊に1冊は英語の本を読む。
③好きな本を好きな順に読む。(ジャンルは問わない)
④朝は小説は読まない(止めたくなくなるから)
⑤読了後、感じたこと・考えたことを文字化する。

自分の中では、想像力を柔らかくする読書、 氣持ちを高める読書、アイデア・考えを広げる読書、知識を広げる読書などに分類わけして読んでいく予定です。

自分の考えを人に話せるレベルで残しておいたほうがいいと思い、これからブログで書いていくつもりです。

まぁ、結局は自分の満足のためですね。

ではでは、乞うご期待!

Sunday, October 20, 2013

Friday, August 2, 2013

せみ達の声が減った。

せみ達の声が減った。

なくした後でその大切さに氣づくんだ、なーんて人は言う。
ある時には氣づかない、って。

「なくした後で、その大切さを今まで以上に感じる」っていうんは、あるんだと思う。

カレーのスプーン
プルタブ
ズボンのゴムひも
好きなあの人の笑い声
雨の日の屋根
蝉の声

でも「ある時には氣づかない」は、多分うそ。
だって、氣付いたら嬉しくなるもんね。
ふんわり笑顔になるもんね。

だから、嬉しさの感度を上げたいな。

ヒグラシの声は空氣に溶け込み
心の風鈴をちりんとならす。

ミンミンゼミは
大人の中にいる子どもの目覚まし時計。

ツクツクボウシは
思いでアルバムを開いてくれる。

アブラゼミ、
おれもがんばってるよ。がんばろうな。

そんな蝉たちの声が、家の周りから消えた。
地表を覆うコンクリートが出口を塞ぎ、幼い彼らは息を止めた。
7年前の蝉はもう一生土の中。
太陽を知らないまま、生きていけない地の中で死ぬ。

ぼくらは、「なくした後で氣付く大切さ」に
なくしても氣付かない段階に入っていないだろうか?

自分で自分の「嬉しさ」を
奪っていないだろうか?

ある言語学者が聞いた。
「動物園からうさぎ達が逃げた。さて、逃げたのは何?」

なにを聞くんだ!という顔で、「うさぎ」と答えたあなた。
逃げたのは、うさぎだけじゃなくてもいいんです。
きりんも、ぞうも、ライオンも、
かめも、めだかもいていいんです。
だって、うさぎ「達」だから。

考えたら、日本語って感度の高い言語だと思う。
考えたことを全部言葉にしないと受け取ってくれない言語は、
わかりやすいけど時々不便。

1を聴いたら
その裏の10をみたいなぁ。

そういう感度が欲しい。

嬉しさ感度
ありがとう感度
いただきます感度
ごめんなさい感度

あ、そういえば、
小学校の夏休み、毎日感じたわくわくを
最近毎日感じないかも。

もしかしたら、知らない間に指の隙間からこぼれてしまったものが多いのかもしれない。


せみ達の声が減った。

Thursday, April 25, 2013

Before A Big

This is actually a piece that I wrote before the thesis defense, which I passed, but it shows how I was feeling at that point, and even after a decent amount of time, I still like it, so I repost this here to come back to the moment and keep my lively thoughts alive inside of me.

~ ~ ~ ~ ~

Ever since I decided to study in America for my Mater's degree, my life has been going off from a typical path for a Japanese person: Graduate from high school, go to a university, graduate and start working. The estimation from the society is prevailing. We are expected to follow the "typical path" and many people seemed not to even notice the expectations they have for other people.

My decision to come to M.A. TESOL program in IUP was absolutely necessary in my life. Without this, my life wouldn't be my life.

With all the courage to "go off" from the typical path,
With all the responsibilities to follow what I have believed,
My life exist as it is today.

Am I confident of all the decisions I made?
Am I proud of all the decisions?
Were my decisions right? Or did I have better options?

I don't have any answer for them. I can't answer, simply because I don't have the answers.
All I know is that I did what I did.

Tomorrow is my thesis defense day.
It's the day which tells me if I can trust all the things I have done for the past two years.
It's the day which tells me if I was fully responsible for the decision I made two years ago.

It's a little scary when I think it that way.
All I can do right now is to trust what I have done till now, trust all my friends who directly and indirectly supported me, and trust all the people who supported me until now.

My life wouldn't exist without even a single person who left a footprint in my life.
Thinking about this fact, I can't help being very, very grateful for all the people who I've met.

Whatever happens tomorrow, I'll face it.
My life has already been blessed by all the people who once walked into my life.

-April 9th, 2013. Kaz-

Saturday, January 19, 2013

体罰について。


みなさん、明けましておめでとうございます

どうもお久しぶりです。 
かずです。 

冬休みは、メキシコの小さな街で10日間をすごし、つたないスペイン語とたくさんの笑顔と歌と踊りとビールとテキーラで現地の方々とまるでご近所のように仲良くなり、年末は日本から来てくれた大の親友と一緒に New York Times Square Crazy なカウントダウンを迎え、さらに思いつきの弾丸旅行で Washington DC に行って来たりと、おそらく最後であろう(?)学生生活の長期休みを満喫してきました :) 


さて、旅に出るといろいろな事を考える訳ですが、今回はある友人から「体罰」について考えるきっかけをいただいたので、ここで日記にしてみようと考えています。 



みなさんもおそらくご存知の通り、ごく最近「体罰」という事象が表立って話題になるという憂うべき出来事がありました。 

本来、こういう事象は、何かがきっかけで表沙汰になる前からしっかりと考えておくべきものであり、その点、こうした事件が起こった後から真剣に考え始めたという点に自分の甘さを感じざるを得ないのでありますが、その点は認めた上で、考えた事を書き連ねようと思います。

今回も随分長くなってしまいました。 
Blog は私見を表現する場と考え、アウトプットを優先したため、かなり読みにくいかと思います。どうか、あしからず。 




体罰。 

まずは賛否の判断を抜きにして考えると、これは非常に原始的な学習の道具だといえます。人間がまだ狩猟生活をしていた遥か昔までさかのぼると、「失敗」と「痛み」は隣り合わせだったのではないかと想像できます。獣の多い道に入ったら、肉食動物に襲われるし、弓矢や槍などの道具の使い道を誤れば大けがをする、あるいは獲物を逃す。小さな失敗はさもあらずとも、大きな失敗は直接自分の、家族の、コミュニティ全体の命を脅かしたわけです。 
やがて文明が少しずつ発達し、人間は自分達の考える(大抵の場合自分にとって都合がよく、相手にとっては都合の悪い)教育を他人に教え込み、相手をコントロールする道具として「物理的な痛み」を利用し始めた。それがいわゆる体罰の起源なのではないかと考えられます。 


さて、この体罰に対してぼくは教育基本法と立場を同にしています。つまり、体罰は強く反対の立場にぼくはいます。理由は、人間に対する哲学と教育者としての個人的な信念との二つからきています。 

1. 
まず一つ目の理由。 
そもそも、「体罰が必要」と考える立場の人達はどんな理由をあげているのでしょうか? 
口で言ってもわからないことがある。自分たちはそうやって物事を学んできた。生徒の行動をすぐに変えられる。子どもの頭では考えてもわからないことがある。・・・ 
いろんな理由が考えられます。そして、その一つ一つ(少なくとも上に挙げた例)は事実の一面を表しているでしょう。しかしながら、これらが体罰を「必要悪」として認める決定的な理由になるかと言ったら、そうはならないと思うのです。 

体罰が行われる現場には、する人とされる人との間に上下関係が必ず存在します。それが親 - 子という関係であれ、教師 - 生徒という関係であれ、上司 - 部下という関係であれ、主人 - 奴隷という関係であれ、開拓者 - 原住民という関係であれ、体罰は上下関係という条件なしには体罰たり得ません。(逆に言えば、体罰を道具として上下関係を強調するということも可能な訳で、多くの場合、体罰は「教育」の他にそうした意味合いももって使われているようです。) 

しかし(ここがぼく個人の哲学の部分なのですが)、そうした上下関係が存在している場合、上の者は下の価値観を尊重し、下の者は上の価値観を尊重しなければならないとぼくは考えます。 

「子どもは口で言ってもわからない。体罰は必要だ。」という人がいる。 
「おれは身体で物事を学んだ。人間、本氣になればできない事はない。お前もそれを身体で学べ。」という人がいる。 

うん、確かにそれはそう。だけど、あなたは本当に相手の事を考えてそれを言っていますか?
そりゃ、本人たちに訊けば「はい」と答えるだろうけれども、しかし、これは一度目を閉じて真剣に考えてみないといけない厳粛な問題です。 

子どもの頃、悪いとわかっていて何かをした時、何かをやった直後に悪いことだとわかった時、「あぁ、悪いことだな」というあの妙な氣分を味わったことが誰しもあるのではないでしょうか。 

悪いことかどうか、ぼくらは心のどこかでわかるんです。始めはそうと知らなくったって、それが本当にいけないことだったら、後で説明されればわかるものです。 
少なくともぼくらはみな、このことをわかってないといけない。 



「口で言ってもわからない」 
もしも伝えようとしていることが本当に正しいことだったら、相手はわかるはずです。もしそれがわからなかったら、それはあなたの説明の仕方が相手に合った方法じゃないか、あなたが伝えようとしていること自体が本当は正しいことでないかもしれない。 

「おれは身体で学んだ。お前もこれでできる」 
あなたはそれでできたかもしれないけれど、それが必ずしも相手にとってベストとは限らない。体罰という選択肢をとる前に、一度別の方法を考えてみるべきです。 


ぼくらは、体罰という選択肢を考える前に、自分たちに本質的な問いを投げかけないといけない。「自分が相手に伝えようとしていることは、本当に正しいことなのだろうか。」 

これは「教える」立場の人間にとっては勇氣のいる問いです。 
自分の教えようとしていることは本当に正しいことなのだろうか。 


この問いかけに、独りよがりでなく「正しい」という答えを出せないままに暴力をふるうことは、ただの暴力以上の誤りで、かつ非常に危険な行動です。 

かつて第二次大戦時代、ナチはこの過ちを犯しました。 
ナチはドイツ全体に「ユダヤ人と共産主義者がいなくなればドイツは繁栄する」という価値観を植え付けたかった。いわば、「教育」したかった。 
そして、その価値観のもとにユダヤ人を排除し、共産主義者を排除し、その価値観に反対する人々を排除しました。 

これは、「体罰」という範疇を超えた、極端な例に聞こえるかもしれません。 
けれど、ここで考えたいことは、人に何かを教える時「自分の伝えようとしていることは本当に正しいことなのだろうか」という問いかけに対し、独りよがりでない答えを出さなければならないということです。少なくとも、ナチのトップ達の答えは極めて独りよがりだった。 

もしそれに対して "Yes" とはっきり答えられなければ、言い換えれば誰もがそれに対して "Yes" と答えることができなければ、これから伝えようとしていることは、自分にとっては正しくても、相手にとっては正しくないかもしれない。 
そうなると私たちは相手を尊重しなければならない。つまり体罰という暴力的手段でそれを教えるという選択をするべきでないのです。 

もし先の問いに対する答えが "Yes" であった場合、言い換えれば万人が「正しい」と考えることを自分は相手に教え/伝えようとしている場合。その場合、相手に説明すれば(心身な異常がそれを妨げていない限り)その正しさがわかるはずなのです。つまり、ここでもやはり体罰という相手の立場を尊重しない行為をとるべきではないのです。 

随分長くなってしまいましたが、ここまでが一つ目の理由です。 




2. 
さて、ぼくが体罰に反対する二つ目の理由ですが、これはぼくの教育者としての信念からきています。 

昔から言われているように、人間が行動を起こす背景には二つの理由があります。一つ目は痛みの回避、二つ目は喜びの達成です。 

学習においても、この二つは全く同じ働きをします。 
それを考えると、体罰は明らかに一つ目に属します。逆に考えると、体罰自体は学習の一つの手段として効果のあり得ない手段ではない訳です。 

しかしながら、教育基本法には体罰の禁止が明記されています。 
では、なぜ体罰はいけないものなのか。教育者としてこれを考えると、二つの理由が見えてきます。 

一つ目は、生徒にとって体罰は悪いものであるから。 
人の心はショックに対して様々な反応をします。体罰による身体的、精神的苦痛は、その場限りのものでなく、受けた人のその後の心身に大きな傷を残します。人によっては、その傷をすぐに癒すことができますが、一方で、その傷とその後長きに渡って向き合い続けなければならない人がいます。それはその人の「精神的強さ」などと全く関係がありません。 
本来、教育は相手に傷という負の遺産を残すためのものでなく、知識や知恵、経験といった正の遺産を残すためのものです。 
教育の場に仕える人間にとって、負の遺産を残すことは最も避けるべきことです。従って、体罰はすべきでないという結論がでます。 
これは、多くの人々が口を揃えて唱えてきたことで、教育者ならば当然考えるべきことです。しかしながら、体罰が許されるべきでない理由というのはもう一つあり、こちらはより教育の核心に近いようでありながら、多くの人が見落としがちである理由のようです。 

すなわち、二つ目の理由は、体罰は教師にとって悪いものであるからです。 
教育というものは、相手の成長を支えるという部分にその本質があります。生徒が学校にくれば、そのご両親は教師の行動を信頼し、我が子の教育を教師に任せる訳です。同時に、生徒も教師を信頼して学校に来る訳です。(もっとも、この信頼関係を築くのは難しく、それがうまくいかない場合「学級崩壊」などといった現象が起こる訳ですが、生徒の心の深い部分には、教師を信頼しようとする氣持ちが多かれ少なかれあるはずです。なぜなら、他人との信頼関係築くということは人間の本質的ニーズの一つだからです。) 

しかしながら、体罰を行うということは、その信頼を一氣に崩しさってしまう行為です。そもそも、前に述べたように、体罰ということ自体が相手への尊重が失われた行為です。その上、学習心理学的に体罰を分析すると、一時的な効果は仮に合ったとしても、全体的に見て決して健康的な学習を育てません。 
「体罰を使えば生徒たちの行動を早く正すことができる」というのは、これらの事実を明らかに軽視した行為です。 

体罰とは、「教師」という皮をかぶりながら、相手の尊重を軽んじ、教育の本質に目を向けることを怠るという行為であり、これは生徒、さらにその保護者の方との信頼関係を壊す行為です。 

教育という人間の活動の中でも非常に価値の高いものにプロフェッショナルとして向き合う存在である以上、体罰は「必要悪」として認められるべきものでないとぼくは信じるのです。 




以上のような理由で、ぼくは体罰には反対です。 
毎回のお断りとなっていますが、ここに書いたことは、あくまでぼくの今の考え方です。 
これが万人にとって正しい考えかと訊かれたら、「はい」とは言わない。ただ、自分は今のこの考えを信じている。それだけは今の自分にとって事実であるようです。 

最後に、体罰について考えるきっかけをあたえてくれた友人の言葉を共有したいと思います。
「体罰によりできないことが本当にできるようになるわけではありません」 

体罰、あなたはどう考えますか。