みなさん、明けましておめでとうございます
どうもお久しぶりです。
かずです。
冬休みは、メキシコの小さな街で10日間をすごし、つたないスペイン語とたくさんの笑顔と歌と踊りとビールとテキーラで現地の方々とまるでご近所のように仲良くなり、年末は日本から来てくれた大の親友と一緒に New York は Times Square で Crazy なカウントダウンを迎え、さらに思いつきの弾丸旅行で Washington DC に行って来たりと、おそらく最後であろう(?)学生生活の長期休みを満喫してきました :)
さて、旅に出るといろいろな事を考える訳ですが、今回はある友人から「体罰」について考えるきっかけをいただいたので、ここで日記にしてみようと考えています。
みなさんもおそらくご存知の通り、ごく最近「体罰」という事象が表立って話題になるという憂うべき出来事がありました。
本来、こういう事象は、何かがきっかけで表沙汰になる前からしっかりと考えておくべきものであり、その点、こうした事件が起こった後から真剣に考え始めたという点に自分の甘さを感じざるを得ないのでありますが、その点は認めた上で、考えた事を書き連ねようと思います。
今回も随分長くなってしまいました。
Blog は私見を表現する場と考え、アウトプットを優先したため、かなり読みにくいかと思います。どうか、あしからず。
体罰。
まずは賛否の判断を抜きにして考えると、これは非常に原始的な学習の道具だといえます。人間がまだ狩猟生活をしていた遥か昔までさかのぼると、「失敗」と「痛み」は隣り合わせだったのではないかと想像できます。獣の多い道に入ったら、肉食動物に襲われるし、弓矢や槍などの道具の使い道を誤れば大けがをする、あるいは獲物を逃す。小さな失敗はさもあらずとも、大きな失敗は直接自分の、家族の、コミュニティ全体の命を脅かしたわけです。
やがて文明が少しずつ発達し、人間は自分達の考える(大抵の場合自分にとって都合がよく、相手にとっては都合の悪い)教育を他人に教え込み、相手をコントロールする道具として「物理的な痛み」を利用し始めた。それがいわゆる体罰の起源なのではないかと考えられます。
さて、この体罰に対してぼくは教育基本法と立場を同にしています。つまり、体罰は強く反対の立場にぼくはいます。理由は、人間に対する哲学と教育者としての個人的な信念との二つからきています。
1.
まず一つ目の理由。
そもそも、「体罰が必要」と考える立場の人達はどんな理由をあげているのでしょうか?
口で言ってもわからないことがある。自分たちはそうやって物事を学んできた。生徒の行動をすぐに変えられる。子どもの頭では考えてもわからないことがある。・・・
いろんな理由が考えられます。そして、その一つ一つ(少なくとも上に挙げた例)は事実の一面を表しているでしょう。しかしながら、これらが体罰を「必要悪」として認める決定的な理由になるかと言ったら、そうはならないと思うのです。
体罰が行われる現場には、する人とされる人との間に上下関係が必ず存在します。それが親 - 子という関係であれ、教師 - 生徒という関係であれ、上司 - 部下という関係であれ、主人 - 奴隷という関係であれ、開拓者 - 原住民という関係であれ、体罰は上下関係という条件なしには体罰たり得ません。(逆に言えば、体罰を道具として上下関係を強調するということも可能な訳で、多くの場合、体罰は「教育」の他にそうした意味合いももって使われているようです。)
しかし(ここがぼく個人の哲学の部分なのですが)、そうした上下関係が存在している場合、上の者は下の価値観を尊重し、下の者は上の価値観を尊重しなければならないとぼくは考えます。
「子どもは口で言ってもわからない。体罰は必要だ。」という人がいる。
「おれは身体で物事を学んだ。人間、本氣になればできない事はない。お前もそれを身体で学べ。」という人がいる。
うん、確かにそれはそう。だけど、あなたは本当に相手の事を考えてそれを言っていますか?
そりゃ、本人たちに訊けば「はい」と答えるだろうけれども、しかし、これは一度目を閉じて真剣に考えてみないといけない厳粛な問題です。
子どもの頃、悪いとわかっていて何かをした時、何かをやった直後に悪いことだとわかった時、「あぁ、悪いことだな」というあの妙な氣分を味わったことが誰しもあるのではないでしょうか。
悪いことかどうか、ぼくらは心のどこかでわかるんです。始めはそうと知らなくったって、それが本当にいけないことだったら、後で説明されればわかるものです。
少なくともぼくらはみな、このことをわかってないといけない。
「口で言ってもわからない」
もしも伝えようとしていることが本当に正しいことだったら、相手はわかるはずです。もしそれがわからなかったら、それはあなたの説明の仕方が相手に合った方法じゃないか、あなたが伝えようとしていること自体が本当は正しいことでないかもしれない。
「おれは身体で学んだ。お前もこれでできる」
あなたはそれでできたかもしれないけれど、それが必ずしも相手にとってベストとは限らない。体罰という選択肢をとる前に、一度別の方法を考えてみるべきです。
ぼくらは、体罰という選択肢を考える前に、自分たちに本質的な問いを投げかけないといけない。「自分が相手に伝えようとしていることは、本当に正しいことなのだろうか。」
これは「教える」立場の人間にとっては勇氣のいる問いです。
自分の教えようとしていることは本当に正しいことなのだろうか。
この問いかけに、独りよがりでなく「正しい」という答えを出せないままに暴力をふるうことは、ただの暴力以上の誤りで、かつ非常に危険な行動です。
かつて第二次大戦時代、ナチはこの過ちを犯しました。
ナチはドイツ全体に「ユダヤ人と共産主義者がいなくなればドイツは繁栄する」という価値観を植え付けたかった。いわば、「教育」したかった。
そして、その価値観のもとにユダヤ人を排除し、共産主義者を排除し、その価値観に反対する人々を排除しました。
これは、「体罰」という範疇を超えた、極端な例に聞こえるかもしれません。
けれど、ここで考えたいことは、人に何かを教える時「自分の伝えようとしていることは本当に正しいことなのだろうか」という問いかけに対し、独りよがりでない答えを出さなければならないということです。少なくとも、ナチのトップ達の答えは極めて独りよがりだった。
もしそれに対して "Yes" とはっきり答えられなければ、言い換えれば誰もがそれに対して "Yes" と答えることができなければ、これから伝えようとしていることは、自分にとっては正しくても、相手にとっては正しくないかもしれない。
そうなると私たちは相手を尊重しなければならない。つまり体罰という暴力的手段でそれを教えるという選択をするべきでないのです。
もし先の問いに対する答えが "Yes" であった場合、言い換えれば万人が「正しい」と考えることを自分は相手に教え/伝えようとしている場合。その場合、相手に説明すれば(心身な異常がそれを妨げていない限り)その正しさがわかるはずなのです。つまり、ここでもやはり体罰という相手の立場を尊重しない行為をとるべきではないのです。
随分長くなってしまいましたが、ここまでが一つ目の理由です。
2.
さて、ぼくが体罰に反対する二つ目の理由ですが、これはぼくの教育者としての信念からきています。
昔から言われているように、人間が行動を起こす背景には二つの理由があります。一つ目は痛みの回避、二つ目は喜びの達成です。
学習においても、この二つは全く同じ働きをします。
それを考えると、体罰は明らかに一つ目に属します。逆に考えると、体罰自体は学習の一つの手段として効果のあり得ない手段ではない訳です。
しかしながら、教育基本法には体罰の禁止が明記されています。
では、なぜ体罰はいけないものなのか。教育者としてこれを考えると、二つの理由が見えてきます。
一つ目は、生徒にとって体罰は悪いものであるから。
人の心はショックに対して様々な反応をします。体罰による身体的、精神的苦痛は、その場限りのものでなく、受けた人のその後の心身に大きな傷を残します。人によっては、その傷をすぐに癒すことができますが、一方で、その傷とその後長きに渡って向き合い続けなければならない人がいます。それはその人の「精神的強さ」などと全く関係がありません。
本来、教育は相手に傷という負の遺産を残すためのものでなく、知識や知恵、経験といった正の遺産を残すためのものです。
教育の場に仕える人間にとって、負の遺産を残すことは最も避けるべきことです。従って、体罰はすべきでないという結論がでます。
これは、多くの人々が口を揃えて唱えてきたことで、教育者ならば当然考えるべきことです。しかしながら、体罰が許されるべきでない理由というのはもう一つあり、こちらはより教育の核心に近いようでありながら、多くの人が見落としがちである理由のようです。
すなわち、二つ目の理由は、体罰は教師にとって悪いものであるからです。
教育というものは、相手の成長を支えるという部分にその本質があります。生徒が学校にくれば、そのご両親は教師の行動を信頼し、我が子の教育を教師に任せる訳です。同時に、生徒も教師を信頼して学校に来る訳です。(もっとも、この信頼関係を築くのは難しく、それがうまくいかない場合「学級崩壊」などといった現象が起こる訳ですが、生徒の心の深い部分には、教師を信頼しようとする氣持ちが多かれ少なかれあるはずです。なぜなら、他人との信頼関係築くということは人間の本質的ニーズの一つだからです。)
しかしながら、体罰を行うということは、その信頼を一氣に崩しさってしまう行為です。そもそも、前に述べたように、体罰ということ自体が相手への尊重が失われた行為です。その上、学習心理学的に体罰を分析すると、一時的な効果は仮に合ったとしても、全体的に見て決して健康的な学習を育てません。
「体罰を使えば生徒たちの行動を早く正すことができる」というのは、これらの事実を明らかに軽視した行為です。
体罰とは、「教師」という皮をかぶりながら、相手の尊重を軽んじ、教育の本質に目を向けることを怠るという行為であり、これは生徒、さらにその保護者の方との信頼関係を壊す行為です。
教育という人間の活動の中でも非常に価値の高いものにプロフェッショナルとして向き合う存在である以上、体罰は「必要悪」として認められるべきものでないとぼくは信じるのです。
以上のような理由で、ぼくは体罰には反対です。
毎回のお断りとなっていますが、ここに書いたことは、あくまでぼくの今の考え方です。
これが万人にとって正しい考えかと訊かれたら、「はい」とは言わない。ただ、自分は今のこの考えを信じている。それだけは今の自分にとって事実であるようです。
最後に、体罰について考えるきっかけをあたえてくれた友人の言葉を共有したいと思います。
「体罰によりできないことが本当にできるようになるわけではありません」
体罰、あなたはどう考えますか。