はじめまして、かずです。
アメリカで英語教授法 (MA TESOL) を専攻しながら、教育について考える日々を送っている一学生です。
英語では今まで
ブログを時たま書いていたのですが、今回日本語でも書き始めようと思い立ち、ここに初めてのブログを書きます。
今回は教育、とりわけ「学習」について科学的側面と哲学的側面の二つの側面から、つたないながらの考察を記してみたいと思います。
1.学習についての科学的側面
学習と言って、ぼくがまず第一に思い浮かべるのは、「机に向かって、蛍光灯に煌々と照らされた教科書に赤線と黄色いマーカーを引きながらノートに鉛筆を走らせる・・・」というイメージです。
そこが学校の教室なのか、自分の部屋なのか、図書館なのか塾なのかを抜きにすると、大体他の人のイメージと似ているのではないかと思うのですが、どうでしょう?
けれど、「学習」という言葉が学校教育の場で発せられた時、その意味合いがかなり変わってくるとぼくは考えます。というのも、学校で発せられる「学習」という言葉は、教師、つまり教育者側からの目線であって、最初のイメージのように学習者側の目線ではないからです。
この違いは表面的な違いにも見えますが、かなりダイナミックで、ともすると危うさをはらんだ違いだとぼくは感じます。
ぼくらが何か新しいことを始めようと思い立ったとき。そこでは、自分の内側から興味とエネルギーが湧き出し、新しいことへの学びの期待と希望、ワクワク感に心が満たされます。おそらくこれは誰しもが経験したことのある状態でしょう。
けれど、これが教室での「学習」となると学習者側にとっては強制という苦痛の種、教育者側にとっても大きな悩みの種になるという、大変化を遂げます。
この「学習」という言葉がはらむ苦悩や危うさを避けるために、「学び」という言葉が使われ始めて以降、「学習者の目線に立った教育者」という意識が強くなってきているようです。
さて、ここで一度教育者として立ち返りたいのが、始めに言及した「学習者側から見た学習」です。つまり、一体この(自発的な)学習課程では何が起こっているのか。さらに、どうしたらそれが成功するのか。自分の経験や周りの人からの経験、さらに成功科学やコーチングなどの知識をもとに、ここに「成功する自発的学習」のモデルを描いてみたいと思います。
1. Attention <意識>
ぼくらが学習を始める時、まず始めに起こるのが意識を向けるということです。これがなければ学習も何も始まりません。「ダイエットのために何かしないと!!」と思っている人が雑誌を開いたら、健康サプリメントやヨガのレッスンなどは目に入るでしょうが、同じ雑誌に載っているイタリア語集中レッスンの広告にはおそらく氣をとめることもないでしょう(その人がイタリア語の熱狂的学習者でもない限り 笑)。つまり、意識が向かない限りは、どんなに効果的な学習方法があっても人はそれを学び始めることはありません。
2. Curiosity <興味>
仮にさっきのイタリア語集中レッスンの下に「1ヶ月無料!」と書かれていて、それが彼/彼女の意識をつかんだとしましょう。けれど、もしその人がイタリア語レッスンに興味を持たなければ、その視線は10秒経たずに次のページに注がれることでしょう。Attention の次には Curiosity が学習を成立させるために必要です。
3. Attraction <魅力>
彼/彼女がイタリアファンだったとします。かつ、語学に興味のある人だったとします。すると「お、イタリア語か。面白そう。1ヶ月なら無料だし、いってみようかな?」となる訳です。さて、実際に教室に足を運ぶ。そこにやってきたのは、ヒゲぼうぼうでビールっ腹のイタリア人。陽氣で最初は楽しそうだと思ったが、50分間歌って踊るイタリア人のビデオを見せられただけで終わってしまった。教科書は触れてもいない。ダイエットの参考にはなるかもしれないけれど、これじゃ全然やる氣がしない。先生太ってるし。。 つまり、イタリア語に魅力を感じなかった。これでは自発的な学習は起こらないわけです。
「でも、この人がこの後、書店に行ってイタリア語講座の本を買って勉強を始めたら、失望ばっかりゃなくて学習が起こるではないか!」
ごもっとも。すると、そこには彼/彼女の独自の魅力(イタリアの街中で飲むワインへの魅力、イタリア語を操っている自分への魅力等)がきっと存在するわけで、そのために学習が引き起こされていると考えられます。
つまり、自発的学習に魅力は不可欠なのです。
4. Modeling <モデリング>
意識も興味もあって魅力も感じている。でもなぜかうまくいかない。そんな経験はおそらく誰しもが経験したことがあるのではないでしょうか。4,5 のステップが、「成功する」学習の鍵だとぼくは考えています。その一つ目が、モデリングすること。すでにうまくいっている人をモデルにして学習するということです。
予備校などでたまにありますが、だれもが「すごい!」とうたうカリスマ講師がいて、その人が「こうやったらうまくいく!」という方法と同じことをしたらなんだか自分もできるようになっていた、ということがあります。学校でも、自分がすごいと思っている先生に言われた通りのことをしたら、できるようになったということがあります。これは、自分より先にうまくいっている人をモデルにして学習を進めているのです。
5. Production <成果>
成功する学習の最後のステップはまさに「成功を生み出す」ステップ。ちゃんと言われた通りにやっているのに、どんなに一生懸命がんばっても成果が出ない。「自分にはやっぱり無理だったんじゃないか」と落ち込んでしまう。この経験はきっと誰もがすることでしょう。誰もがするということは、裏を返せばそれが「当たり前」だということです。
ところが、大抵の場合ここであきらめてしまって結局うまくいかないままに終わってしまったということが世の中では非常に多いようです。あと一歩のところでやめてしまう。これは非常にもったいない。
自分が行き詰まっているということは、自分が行き詰まる地点までたどり着いたという証です。そこにたどり着いた時、学習時間を増やす、学習方法を変えてみる、落ち着いて今まで通り学習する・・・ いろいろな手段がありますが、それらの手段を通して成果を出すことが、「成功する学習」を生み出す最後の鍵です。つまり、うまくいっている人は皆「うまくいくまで続けた人」で、うまくいかなかった人は「うまくいくまで続けなかった人」だと言うことができるのです。
以上、「成功する自発的学習」のモデルを描いたわけですが、これはぼくが「科学」と信じる部分で、つまり「誰にでも当てはめることができる」ことだと考えています。
そもそもこの科学への探求は「自発的学習」から始めたわけですが、これを教育現場での「学習」あるいは「学び」に還元してあげると、現在抱えている「学習者にも教育者にも苦悩の種」という問題をより純粋な学習に捉え直し、より効果的な学習活動を提供することができるのではないかと思うのです。
「そんなこと口で言うのは簡単だし、みんな教育者は知っている!」という声が聞こえてくるようですが、知っていると実践するということは随分違うわけで、実際、教育現場からは「実践するのが難しい」という声が聞こえてきていますが、それは「難しい」にどう挑戦したらいいかその指針がないためで、それが故に難しいを難しいのままにして実行が先送りにされてしまっているがためであるようです。
それをいざ具体的に実行する上で、その根底としてどうしても明確にしておきたいのが、学習に対する自身の哲学であるとぼくは考えます。そこで、次に学習への哲学的一考察をここに私見ながら綴ろうと思います。
2.学習の哲学
ぼくは、哲学は「そもそもなぜ?」から始まると考えています。つまり、命を対象にした哲学は「そもそもなぜ人は生きているか」という根本的疑問から始まっており、そうなれば学習に対する哲学も「そもそもなぜ学習するか」という地点から始めていくのが妥当だと思うのです。
さて、ぼくたちはなぜ学習をするのでしょうか?
社会で生きていくため、大人になった時に恥をかかないため、よりよい大学に入るため、常識をつけるため、自分で考える力をつけるため・・
きっと、この質問を教育に携わっている方々に聞いたら色々な答えが返ってくるでしょう。どれももっとな理由の一つのようです。
けれど、その答えにさらに「なんで?」を投げかけ続けると、案外途中でその答えに詰まってしまうかもしれません。
「なんで学習するの?」ー自分で考える力をつけるためだよ。
「なんで自分で考える力が必要なの?」ー世の中には正しいことと間違っていることとが入り交じっているから、自分の答えを自分でみつけないといけないからだよ。
「なんで自分の答えを自分でみつけないといけないの?」ーう〜ん、自分の人生は自分のものだから、最終的には自分でなんでも決めないといけないからだよ。
「なんで自分で決めないといけないの?」ー。。。
もし自分が教育の現場にいて、学習者側にいる人(生徒)がこのような質問をしてきたらと考えると、これはなかなかスリリングな経験でしょう。
けれど、この「なぜ学習するのか」という本質的な問いに対して、先ほどの「自発的な学習」について考えると、案外に答えが出やすいのではないでしょうか。
ぼくは「なぜ学習するのか」の答え、つまり学習の目的の最終地点は「喜び、幸せ、満足」など上向きの感情の獲得だと考えています。そして、その上向きの感情を獲得するために2種類のソースがあると考えています。
一つは、自己成長(自身の喜び)です。
なにかを学び始めて、それがある特定のレベルに到達する。英語を勉強してテストで点が取れた、外国人と話ができた、先生に褒められた等、ある特定のレベルに自分が到達したことが確認できると、ぼくらは大きな喜びを感じることができます。そして、その瞬間「なんで学習していたんだろう?」という質問の答えを感じることができます。むしろ、その質問を自分に問わなくなる瞬間と言った方が正確なのかもしれません。
つまり、「なぜ学習するのか」という根源的な問いが自分の頭から離れた瞬間が、その答えを自分が感じている瞬間と言えるといって間違いではないと思うのです。そして、この自己成長から感じる感情こそが、その問いに対する答えだと言えるのです。
二つ目。これは教育者のみが感じられる非常に美しい部分だと思うのですが、それが自他成長(共有の喜び)です。
勉強していたことがやっと理解できた。なにかができるようになった。そんな自己成長からくる感情が自分の身体に広がった時、そこを目指してがんばっている人をみるとそれを助けてあげたくなる。そうした感情は、教育現場に身を置いている人に限らず、誰しもが持っている感情だとぼくは信じています。裏を返せば、誰しもが教育者であるということをぼくは信じています。
小さな子どもがおままごとで料理の仕方を教え合っている。問題が解けずに頭を抱えている子にクラスの友達が助けてあげようとしている。そんな光景を目にすると、なんだか微笑ましく心が暖かくなります。
そこには、自分が達成した時に感じた喜びや幸せを他の人と共有しようという意識が働いています。そしてそれが達成できた時、そこには自分だけで達成した以上の喜び、幸せが待っているのです。
これがぼくの学習の目的に対する哲学的考察で、そこから学習を定義すれば、
「自己成長と自他成長からくる大きな上向きの感情を知っていて、それに向かって努力を積み重ねること。」
となるでしょう。
以上が学習の哲学的側面ですが、この哲学という部分は10人いれば10人のパターンがあるわけで、「私には私の哲学があり、あなたにはあなたの哲学がある」という非常に平等で赴き深い本質をもっているのがこの哲学というものです。
そして、科学的考察の最後で言及した通り、この哲学が教育者の抱える実践の難しさの解決への最初の一石を投ずるものとぼくは信じるのです。
以上、つたない考察をここに記しました。
みなさんは学習について、どう考えますか?