Saturday, January 19, 2013

体罰について。


みなさん、明けましておめでとうございます

どうもお久しぶりです。 
かずです。 

冬休みは、メキシコの小さな街で10日間をすごし、つたないスペイン語とたくさんの笑顔と歌と踊りとビールとテキーラで現地の方々とまるでご近所のように仲良くなり、年末は日本から来てくれた大の親友と一緒に New York Times Square Crazy なカウントダウンを迎え、さらに思いつきの弾丸旅行で Washington DC に行って来たりと、おそらく最後であろう(?)学生生活の長期休みを満喫してきました :) 


さて、旅に出るといろいろな事を考える訳ですが、今回はある友人から「体罰」について考えるきっかけをいただいたので、ここで日記にしてみようと考えています。 



みなさんもおそらくご存知の通り、ごく最近「体罰」という事象が表立って話題になるという憂うべき出来事がありました。 

本来、こういう事象は、何かがきっかけで表沙汰になる前からしっかりと考えておくべきものであり、その点、こうした事件が起こった後から真剣に考え始めたという点に自分の甘さを感じざるを得ないのでありますが、その点は認めた上で、考えた事を書き連ねようと思います。

今回も随分長くなってしまいました。 
Blog は私見を表現する場と考え、アウトプットを優先したため、かなり読みにくいかと思います。どうか、あしからず。 




体罰。 

まずは賛否の判断を抜きにして考えると、これは非常に原始的な学習の道具だといえます。人間がまだ狩猟生活をしていた遥か昔までさかのぼると、「失敗」と「痛み」は隣り合わせだったのではないかと想像できます。獣の多い道に入ったら、肉食動物に襲われるし、弓矢や槍などの道具の使い道を誤れば大けがをする、あるいは獲物を逃す。小さな失敗はさもあらずとも、大きな失敗は直接自分の、家族の、コミュニティ全体の命を脅かしたわけです。 
やがて文明が少しずつ発達し、人間は自分達の考える(大抵の場合自分にとって都合がよく、相手にとっては都合の悪い)教育を他人に教え込み、相手をコントロールする道具として「物理的な痛み」を利用し始めた。それがいわゆる体罰の起源なのではないかと考えられます。 


さて、この体罰に対してぼくは教育基本法と立場を同にしています。つまり、体罰は強く反対の立場にぼくはいます。理由は、人間に対する哲学と教育者としての個人的な信念との二つからきています。 

1. 
まず一つ目の理由。 
そもそも、「体罰が必要」と考える立場の人達はどんな理由をあげているのでしょうか? 
口で言ってもわからないことがある。自分たちはそうやって物事を学んできた。生徒の行動をすぐに変えられる。子どもの頭では考えてもわからないことがある。・・・ 
いろんな理由が考えられます。そして、その一つ一つ(少なくとも上に挙げた例)は事実の一面を表しているでしょう。しかしながら、これらが体罰を「必要悪」として認める決定的な理由になるかと言ったら、そうはならないと思うのです。 

体罰が行われる現場には、する人とされる人との間に上下関係が必ず存在します。それが親 - 子という関係であれ、教師 - 生徒という関係であれ、上司 - 部下という関係であれ、主人 - 奴隷という関係であれ、開拓者 - 原住民という関係であれ、体罰は上下関係という条件なしには体罰たり得ません。(逆に言えば、体罰を道具として上下関係を強調するということも可能な訳で、多くの場合、体罰は「教育」の他にそうした意味合いももって使われているようです。) 

しかし(ここがぼく個人の哲学の部分なのですが)、そうした上下関係が存在している場合、上の者は下の価値観を尊重し、下の者は上の価値観を尊重しなければならないとぼくは考えます。 

「子どもは口で言ってもわからない。体罰は必要だ。」という人がいる。 
「おれは身体で物事を学んだ。人間、本氣になればできない事はない。お前もそれを身体で学べ。」という人がいる。 

うん、確かにそれはそう。だけど、あなたは本当に相手の事を考えてそれを言っていますか?
そりゃ、本人たちに訊けば「はい」と答えるだろうけれども、しかし、これは一度目を閉じて真剣に考えてみないといけない厳粛な問題です。 

子どもの頃、悪いとわかっていて何かをした時、何かをやった直後に悪いことだとわかった時、「あぁ、悪いことだな」というあの妙な氣分を味わったことが誰しもあるのではないでしょうか。 

悪いことかどうか、ぼくらは心のどこかでわかるんです。始めはそうと知らなくったって、それが本当にいけないことだったら、後で説明されればわかるものです。 
少なくともぼくらはみな、このことをわかってないといけない。 



「口で言ってもわからない」 
もしも伝えようとしていることが本当に正しいことだったら、相手はわかるはずです。もしそれがわからなかったら、それはあなたの説明の仕方が相手に合った方法じゃないか、あなたが伝えようとしていること自体が本当は正しいことでないかもしれない。 

「おれは身体で学んだ。お前もこれでできる」 
あなたはそれでできたかもしれないけれど、それが必ずしも相手にとってベストとは限らない。体罰という選択肢をとる前に、一度別の方法を考えてみるべきです。 


ぼくらは、体罰という選択肢を考える前に、自分たちに本質的な問いを投げかけないといけない。「自分が相手に伝えようとしていることは、本当に正しいことなのだろうか。」 

これは「教える」立場の人間にとっては勇氣のいる問いです。 
自分の教えようとしていることは本当に正しいことなのだろうか。 


この問いかけに、独りよがりでなく「正しい」という答えを出せないままに暴力をふるうことは、ただの暴力以上の誤りで、かつ非常に危険な行動です。 

かつて第二次大戦時代、ナチはこの過ちを犯しました。 
ナチはドイツ全体に「ユダヤ人と共産主義者がいなくなればドイツは繁栄する」という価値観を植え付けたかった。いわば、「教育」したかった。 
そして、その価値観のもとにユダヤ人を排除し、共産主義者を排除し、その価値観に反対する人々を排除しました。 

これは、「体罰」という範疇を超えた、極端な例に聞こえるかもしれません。 
けれど、ここで考えたいことは、人に何かを教える時「自分の伝えようとしていることは本当に正しいことなのだろうか」という問いかけに対し、独りよがりでない答えを出さなければならないということです。少なくとも、ナチのトップ達の答えは極めて独りよがりだった。 

もしそれに対して "Yes" とはっきり答えられなければ、言い換えれば誰もがそれに対して "Yes" と答えることができなければ、これから伝えようとしていることは、自分にとっては正しくても、相手にとっては正しくないかもしれない。 
そうなると私たちは相手を尊重しなければならない。つまり体罰という暴力的手段でそれを教えるという選択をするべきでないのです。 

もし先の問いに対する答えが "Yes" であった場合、言い換えれば万人が「正しい」と考えることを自分は相手に教え/伝えようとしている場合。その場合、相手に説明すれば(心身な異常がそれを妨げていない限り)その正しさがわかるはずなのです。つまり、ここでもやはり体罰という相手の立場を尊重しない行為をとるべきではないのです。 

随分長くなってしまいましたが、ここまでが一つ目の理由です。 




2. 
さて、ぼくが体罰に反対する二つ目の理由ですが、これはぼくの教育者としての信念からきています。 

昔から言われているように、人間が行動を起こす背景には二つの理由があります。一つ目は痛みの回避、二つ目は喜びの達成です。 

学習においても、この二つは全く同じ働きをします。 
それを考えると、体罰は明らかに一つ目に属します。逆に考えると、体罰自体は学習の一つの手段として効果のあり得ない手段ではない訳です。 

しかしながら、教育基本法には体罰の禁止が明記されています。 
では、なぜ体罰はいけないものなのか。教育者としてこれを考えると、二つの理由が見えてきます。 

一つ目は、生徒にとって体罰は悪いものであるから。 
人の心はショックに対して様々な反応をします。体罰による身体的、精神的苦痛は、その場限りのものでなく、受けた人のその後の心身に大きな傷を残します。人によっては、その傷をすぐに癒すことができますが、一方で、その傷とその後長きに渡って向き合い続けなければならない人がいます。それはその人の「精神的強さ」などと全く関係がありません。 
本来、教育は相手に傷という負の遺産を残すためのものでなく、知識や知恵、経験といった正の遺産を残すためのものです。 
教育の場に仕える人間にとって、負の遺産を残すことは最も避けるべきことです。従って、体罰はすべきでないという結論がでます。 
これは、多くの人々が口を揃えて唱えてきたことで、教育者ならば当然考えるべきことです。しかしながら、体罰が許されるべきでない理由というのはもう一つあり、こちらはより教育の核心に近いようでありながら、多くの人が見落としがちである理由のようです。 

すなわち、二つ目の理由は、体罰は教師にとって悪いものであるからです。 
教育というものは、相手の成長を支えるという部分にその本質があります。生徒が学校にくれば、そのご両親は教師の行動を信頼し、我が子の教育を教師に任せる訳です。同時に、生徒も教師を信頼して学校に来る訳です。(もっとも、この信頼関係を築くのは難しく、それがうまくいかない場合「学級崩壊」などといった現象が起こる訳ですが、生徒の心の深い部分には、教師を信頼しようとする氣持ちが多かれ少なかれあるはずです。なぜなら、他人との信頼関係築くということは人間の本質的ニーズの一つだからです。) 

しかしながら、体罰を行うということは、その信頼を一氣に崩しさってしまう行為です。そもそも、前に述べたように、体罰ということ自体が相手への尊重が失われた行為です。その上、学習心理学的に体罰を分析すると、一時的な効果は仮に合ったとしても、全体的に見て決して健康的な学習を育てません。 
「体罰を使えば生徒たちの行動を早く正すことができる」というのは、これらの事実を明らかに軽視した行為です。 

体罰とは、「教師」という皮をかぶりながら、相手の尊重を軽んじ、教育の本質に目を向けることを怠るという行為であり、これは生徒、さらにその保護者の方との信頼関係を壊す行為です。 

教育という人間の活動の中でも非常に価値の高いものにプロフェッショナルとして向き合う存在である以上、体罰は「必要悪」として認められるべきものでないとぼくは信じるのです。 




以上のような理由で、ぼくは体罰には反対です。 
毎回のお断りとなっていますが、ここに書いたことは、あくまでぼくの今の考え方です。 
これが万人にとって正しい考えかと訊かれたら、「はい」とは言わない。ただ、自分は今のこの考えを信じている。それだけは今の自分にとって事実であるようです。 

最後に、体罰について考えるきっかけをあたえてくれた友人の言葉を共有したいと思います。
「体罰によりできないことが本当にできるようになるわけではありません」 

体罰、あなたはどう考えますか。

Monday, September 24, 2012

学習プロセスモデルの見直しと、教育の本質についての私的見解

以前、成功する学習には5つのステップがあるとブログに書きました。Attention, Curiosity, Attraction, Modeling, Progress/Production の5つがそれだったのですが、その後たくさんのコメント、フィードバックを頂き、修正モデルを考える必要を感じたので、今日はそれについて書こうと思います。

振り返ってみると、以前のモデルを考えていた自分は、学習する「機会」を「当然あるもの」として捉えていたのですが、友人のコメントから、そうした機会を与えられいない人達がいるという現状を教わりました。自分で勝手に前提を作ってしまっていたことを指摘され、痛い思いを感じたと同時に、自分の考えの及んでいなかったことを指摘してくれる友人がいるということに、とても感謝をしています。


よくよく考えてみると、自分の身の周りにも、「よい学習のための機会」が与えられていないということはありふれているようです。
例えば、普段何氣なく生活している中である問題が発生して、悩みに悩んだ末に友達に相談をしたら、その問題を引き起こしている根本を指摘され、「ああ!」と納得すると同時に、「昔あったあれも、これがわかってたら随分違っただろうな」と思った、という経験はおそらく多くの人にあるのではないでしょうか。

ぼく自身の最近の例で言うと、授業に修論に就活にアルバイトにサークルにと、やることがたくさんあって息抜きができていなかったのに、日ごとの「やることリスト」が柔軟性に欠けていて、「お昼のうちにこの宿題を何ページ読んで、その後図書館で2時間修論やって。あぁ、365 Days も Facebook にアップロードしないと!」で「やること」が目の前にどっさり山積み。その時点で本当に息抜きのできる時間がほとんどない。
それで、友達や先生と話したりで予定通りの時間がなくなってしまうと、「あぁー!また寝る時間削ってやらないと!!」でプレッシャーを感じてしまい、もっと「息抜きをする時間」を惜しんで「やることリスト」を終わらせようとして、その結果疲れがたまって効率が悪くなり、「あぁ!また終わらない!寝る時間を・・・」の繰り返し。。。笑
「どうにかしないといけない!」と思い立って友達に相談した結果、「一日に一回、必ずリラックスする時間を作る」という発想が自分の頭から出てきて、それから見違えるように氣持ちが楽になり、結果、自分のやることも随分うまくいくようになった。さらに、「これを学ぶ機会がもっと前にあれば、大学4年で卒業論文に追われてる時も随分違ったかもしれない」なんて思い返すようにもなった。

この例を出したのは、「自分はこんなにたくさんのことをこなしている!」と自己満足に自分を沈めるためでなく(生産性のない自己満足に自分を沈めることほど自分の価値を下げることはない!が、同時にがんばった自分を褒めてあげることほど自分の価値を高めることはない!この違いと、どうしたらうまく自分を褒めてあげられるかは、また今度書こうと思います。)、学びの機会というのは実は私たちの周りにあふれているということを具体的に想像してもらいたかったからです。きっと振り返ってみたら、あなたの日々の中にもこのような経験があったのではないでしょうか?


さて、ここで注意すべきは、「よい学習のための機会」というのは待っていたら転がってくる物でも、誰かが与えてくれる物でもなく、「自分で探さなければならないもの」だということです。
これは、教育に携わる立場にいる人達にとっては、さらに真剣さを要します。というのも、そうした人たちにとっては、目の前にいる人に対し、より質の高い学習の機会を探した上で、彼らがそれをみつけられるように導いてあげるのが仕事になるからです。


大学時代にぼくが友達と運営していた教育ボランティアサークルでは、活動に来てくれた生徒たち一人ひとりに、勉強を楽しむいろんな方法を提供していました。それは、大学生側が一方的に「コレをしてみよう、アレをしてみよう」という関係ではなく、生徒一緒に勉強を楽しみながら、一緒になって楽しい方法を作り出すという関係でした。
実際、「あ、そのやり方すごくいいじゃん!」と生徒側から学生が氣づかされることが非常に多かったように記憶しています。
もちろん、その活動が完璧であったかと言えば、それからはほど遠く、以前は「よりよい学習の機会にみちびいてあげなければならない」などとは考えていなかった訳なのですが、振り返ってみると、当時のアプローチは「生徒一人ひとりが自分にあった学習の機会をみつけるのをサポートする」という点では、ある程度の成果を生徒たちが作り出すお手伝いができたのではないかと思っています(むしろ学ばせてもらうことの方が多かったかもしれないのですが)。教育に携わる者にとって、どんな形にせよ「目の前にいる人が学びの機会をみつける」ことを目指すことは、非常に必要なことだとぼくは感じるのです。




以上、学習の「機会」について書いてみた訳ですが、さらに、学習モデルの最後のステップとして、今まで経てきたステップを振り返ってみるという作業をモデルの中に加えてみると、より現実的な成功する学びに近づくのではないかと最近考え始めました。

多くの人の意識の中では、今までの自分を振り返り、満足のいかない結果を出していた原因がわかった時に大きな「学び」が起こるようです。ぼくの周りの人たちの中でも、「今振り返ったらあの時はあほだったよな」とか「今の自分があの時に戻ったら、もう全然違う結果がだせたよな」と言う人がたくさんいました。その瞬間の彼ら、彼女たちの表情からは、決して過去を嘆く悲観的なものではなく、なにか以前と違う自分にそっと喜んでいるような、やんちゃで魅力的な笑顔であったり、今の自分を褒めながらこれからに希望にこっそりわくわくしているような、きらきらとした目がみてとれました。
きっと、今これを読んでくださっている方の周りにもそんな人たちがいたんじゃないかと思います。もしかすると「私もそれ感じたことある!」という人も多いのではないでしょうか。

この「振り返り」の瞬間、自分がどんな変化を起こしてきたのか、そこから何を得たのか・学んだのかということが、意識の中にリアルな自分のストーリーとして広がってきます。そして、ぼくのみてきた限り、そうした瞬間がその人の今の状態であったりこれから踏み出す新たな一歩であったりを勇氣づけ、励ましてくれる大きなプッシュになっているようです。つまり、こうした内省 (reflection) の経験が、それまでの学びのみならず、これからの学びにも大きな影響を与えるているようです。(教育の分野では、この Reflection に関するポジティブな成果がたくさん報告されています。その一例として、Reflective Journal (振り返りの日記)が学習ストラテジーを強めるという成果も発表されているようです。このブログ自体が、よく考えたらぼくにとっての "Reflective Journal" ですね!)


以上の2点を参考に、新しい学習モデルを整理すると、以下のようになります。

〜修正版学習のプロセス: ACOAMP-R モデル〜
Attention: 意識
Curiosity: 興味
Opportunity: 機会
Attraction: 魅力
Modeling: モデリング
Progress/Production: 成果
Reflection: 内省

ブログの入力形式の関係で、ここにうまく視覚化することが難しいのですが、ここで注意したいのは、これは直線的なモデルでなく、サイクルモデルだということです。どういうことかというと、最後のステップ Reflection はそれ以前の6つの段階のどこにでも戻ることができ、そこからの繰り返しが、「学び」を "Never Ending Story" たらしめる動きを作り出すのです。




最後に(といってもまだしばらく続くのですが)特に強調したいことは、自分が学習者である場合、これら7段階の全てを自分で作り出すことができるということです。今回のブログは「機会」から始まったわけですが、「意識」から「魅力」までの4ステップは、自分が「これを学ぶぞ」という強い決断をしていれば、自ら生み出すことができます。なぜなら、意識も興味も魅力も、それを作り出すのは自分の脳しだいだからです。「機会はどうなの?」という声が聞こえてきそうですが、「学ぶ機会」もまた、自分が本当にそれを学ぶと決断していたら、どんな方法でもそれをみつけることができるはずです。仮に、前回の例を振り返って、イタリア語の教室が近くになかったとします。すると、そこで機会はなくなってしまったかと言ったらそんなことは決してなく、オンラインのイタリア語会話プログラムをみつけられることもできますし、イタリアン・バーに行ってイタリアから来ている人を探すこともできます。直接現地に行って語学学校に入るというのも一つでしょう。「お金がない!」と言う人は、友達に手当たり次第、イタリア人の友達がいないか聞いてみるかもしれません。きっと友達の友達の友達くらいまでにはイタリア人が見つかるでしょう。仮に見つからなくても、イタリア語を勉強したことのある人なら一人くらいみつかりそうです。そうなれば、その人にどう勉強したかインタビューするのもひとつでしょう。もしかしたら古い教科書やノートを貸してくれるかもしれません。問題は、「機会」も含めてそれが「あるかないか」ではなく、「自分がそれを見つけ出すか見つけ出さないか」なのです。


これはしかし、自分が学習者をサポートする立場、つまり教育に携わる者であると、また話が少し違ってきます。「みつけられるよ!がんばれ!」というメッセージは、特に学校など教育機関にいる人たちにとっては、必ずマイナスになるとは言わないまでも、そのメッセージだけを伝えるのではいい効果は決して期待できません。

さぁ、いよいよ今日のブログの核心に迫ってきた訳ですが、全てを解決する何か全く新しい方法をここで提案する、といったようなことはありません。というのも、そういうアイデアをぼくはそもそも持っていないし、それをみつけようとするのも現実的でないと思うからです。(古今東西多くの教育研究者が、「one-fits-for-all panacea (全ての人、全ての症状に効く万能薬)なんてない!」と明言している!)

しかし、「学習者一人ひとりの学びをよりよいものにする」という理想に近づくその方法の根本を目指して教育を掘り下げていくと、つまるところ、「教師や先生と呼ばれる立場の人たちも、一学習者である」というところに行き着くのではないかと思うのです。ぼくが「教師」や「先生」という言葉を使わず「教育に携わる人たち」という表現をするのは、一面ではこうした「教師」「先生」と呼ばれる人たちを指しているのですが、同時に「その人たちもまた学習者である」という面もまたその言葉に含めたいからです。


教育に携わる人たちは、目の前にいる人たち(これから学びを始める人たち、生徒)の「意識」をつかむみ、「興味」を駆り立てるためにありとあらゆる工夫をし、それが可能な様々な「機会」の種を授業内外で蒔き、生徒が「魅力」を感じ、それを膨らませる機会を真剣に考え、彼ら、彼女らに合った「モデル」を提供することで「成果」を生み出しながら、さらに「内省」を促し、一人ひとりが自分の学びと向き合う中で、さらなる学びへの準備を手伝うことを仕事にしています(他にもたくさんしていることはあるのですが、ここでは今回紹介したモデルにそってその仕事をみています)。

また、それと同じく非常に重要且つ不可欠なことは、教育に携わる者一人ひとりが、「自分は他の人の学びを支えるための方法を学び続けている者なのだ」という自覚を持ち、自身の研鑽に励むことです。そして、その自己研鑽の一つの指標として、今回紹介したモデルが少しでも役に立てば、と、ぼくはそっと願っているわけです。

つまり、ぼくも含めた教育に携わる人たちが、「どうしたら目の前にいる人たちにより質の高い学びを提供できるだろうか」という問題に向かっている「学習者」であるということを強く「意識」し、その問題に大きな「興味」を持ち、それを解決するための「機会」を一生懸命になって探し、それに携わる自分の仕事に心から「魅力」を感じ、「モデル」を探して「成果」を生み、「内省」を通して更なる研鑽に努める。

何度も強調しますが、決してこのモデルが全てとは言いません。直感で「自分にはしっくりくるな」と感じている人もいれば、「いや、なんだか」と感じるている人もいるでしょう。ただ一つぼくが願うことは、「頭の中で止まらず、何か行動をして欲しい」ということです。

ぼくは「行動をしたくてもどうしたらいいかわからない」という状態が長く続いていました。わからなかったので、やみくもに自分ができることを考え、自分で「それが正しい」と信じてきました。そこから多くを学びとったのは事実ですが、同時に、独りよがりだったと思っているのもまた事実です。

なぜぼくがこんなに「学習モデル」に執着しているか。
それは、そんな独りよがりだった自分が、周りの人に目を向けるようになり、「モデリング」することを通して、学びということに対する考察が以前より深まってきたと感じていると共に、それをまわりの人共有したいと思っているからです。この7つのステップは、ぼくが一人で思いついたものではなく、本を読み、友達の話を聴き、先生の話を聴き、その他たくさんの教育者たちの意見に触れ、フィードバックをもらい、さらに考えることで、少しずつ見えてきたモデルです。きっとこれからまた少しずつ変わる部分があるかもしれませんが、その一つ一つが、誰かの行動のきっかけとなり、指針となってくれたら、言葉にならないほど嬉しく思います。

これからも、教育に携わる者として研鑽の日々を過ごしていきたいと思っています。

大切な時間を使ってこれを読んでいただき、本当にありがとうございます。

Thursday, August 9, 2012

いつもつよくやさしいあなたへ。


「となりに」


いつだって強いわけじゃない。


涙をぐっとこらえて、


強がりながら生きてきた。


でも、本当は泣きたい時もある。


励ましの言葉は言わないで。


ただ、となりにいてくれるだけでいい


私のことを知っていてくれるあなたがいる


それを感じさせてくれるだけでいい。


そうしたら、またがんばれるから。





- Kaz Kuma




つらいこと、嬉しいこと、悲しいこと、楽しいこと。

いろんなことがぐるぐるとまわってやってくると、つい自分を失ってしまうときがある。


大丈夫。

いつもがんばってるなんて、自分に言いきかせなくていい。

いつもがんばらなきゃなんて、自分に言いきかせなくていい。

だって、あなたは輝いているから。


たくさんの思い出がつまった「いま」を感じよう。

いままで自分が残してきた足跡を振り返ることは

決して後ろ向きじゃないんだよ。





さだまさしさんの「主人公」から。

〜 〜 〜
あなたは教えてくれた

自分の人生の中では だれもが皆主人公

時折 思い出の中で あなたは支えてください

わたしの人生の中では わたしが主人公だと
〜 〜 〜



いつも つよく やさしい あなたへ。







Sunday, August 5, 2012

学習についての科学的、哲学的考察


はじめまして、かずです。

アメリカで英語教授法 (MA TESOL) を専攻しながら、教育について考える日々を送っている一学生です。



英語では今までブログを時たま書いていたのですが、今回日本語でも書き始めようと思い立ち、ここに初めてのブログを書きます。

今回は教育、とりわけ「学習」について科学的側面と哲学的側面の二つの側面から、つたないながらの考察を記してみたいと思います。



1.学習についての科学的側面

学習と言って、ぼくがまず第一に思い浮かべるのは、「机に向かって、蛍光灯に煌々と照らされた教科書に赤線と黄色いマーカーを引きながらノートに鉛筆を走らせる・・・」というイメージです。
そこが学校の教室なのか、自分の部屋なのか、図書館なのか塾なのかを抜きにすると、大体他の人のイメージと似ているのではないかと思うのですが、どうでしょう?

けれど、「学習」という言葉が学校教育の場で発せられた時、その意味合いがかなり変わってくるとぼくは考えます。というのも、学校で発せられる「学習」という言葉は、教師、つまり教育者側からの目線であって、最初のイメージのように学習者側の目線ではないからです。

この違いは表面的な違いにも見えますが、かなりダイナミックで、ともすると危うさをはらんだ違いだとぼくは感じます。


ぼくらが何か新しいことを始めようと思い立ったとき。そこでは、自分の内側から興味とエネルギーが湧き出し、新しいことへの学びの期待と希望、ワクワク感に心が満たされます。おそらくこれは誰しもが経験したことのある状態でしょう。

けれど、これが教室での「学習」となると学習者側にとっては強制という苦痛の種、教育者側にとっても大きな悩みの種になるという、大変化を遂げます。
この「学習」という言葉がはらむ苦悩や危うさを避けるために、「学び」という言葉が使われ始めて以降、「学習者の目線に立った教育者」という意識が強くなってきているようです。


さて、ここで一度教育者として立ち返りたいのが、始めに言及した「学習者側から見た学習」です。つまり、一体この(自発的な)学習課程では何が起こっているのか。さらに、どうしたらそれが成功するのか。自分の経験や周りの人からの経験、さらに成功科学やコーチングなどの知識をもとに、ここに「成功する自発的学習」のモデルを描いてみたいと思います。

1. Attention <意識>
ぼくらが学習を始める時、まず始めに起こるのが意識を向けるということです。これがなければ学習も何も始まりません。「ダイエットのために何かしないと!!」と思っている人が雑誌を開いたら、健康サプリメントやヨガのレッスンなどは目に入るでしょうが、同じ雑誌に載っているイタリア語集中レッスンの広告にはおそらく氣をとめることもないでしょう(その人がイタリア語の熱狂的学習者でもない限り 笑)。つまり、意識が向かない限りは、どんなに効果的な学習方法があっても人はそれを学び始めることはありません。

2. Curiosity <興味>
仮にさっきのイタリア語集中レッスンの下に「1ヶ月無料!」と書かれていて、それが彼/彼女の意識をつかんだとしましょう。けれど、もしその人がイタリア語レッスンに興味を持たなければ、その視線は10秒経たずに次のページに注がれることでしょう。Attention の次には Curiosity が学習を成立させるために必要です。

3. Attraction <魅力>
彼/彼女がイタリアファンだったとします。かつ、語学に興味のある人だったとします。すると「お、イタリア語か。面白そう。1ヶ月なら無料だし、いってみようかな?」となる訳です。さて、実際に教室に足を運ぶ。そこにやってきたのは、ヒゲぼうぼうでビールっ腹のイタリア人。陽氣で最初は楽しそうだと思ったが、50分間歌って踊るイタリア人のビデオを見せられただけで終わってしまった。教科書は触れてもいない。ダイエットの参考にはなるかもしれないけれど、これじゃ全然やる氣がしない。先生太ってるし。。 つまり、イタリア語に魅力を感じなかった。これでは自発的な学習は起こらないわけです。

「でも、この人がこの後、書店に行ってイタリア語講座の本を買って勉強を始めたら、失望ばっかりゃなくて学習が起こるではないか!」
ごもっとも。すると、そこには彼/彼女の独自の魅力(イタリアの街中で飲むワインへの魅力、イタリア語を操っている自分への魅力等)がきっと存在するわけで、そのために学習が引き起こされていると考えられます。
つまり、自発的学習に魅力は不可欠なのです。


4. Modeling <モデリング>
意識も興味もあって魅力も感じている。でもなぜかうまくいかない。そんな経験はおそらく誰しもが経験したことがあるのではないでしょうか。4,5 のステップが、「成功する」学習の鍵だとぼくは考えています。その一つ目が、モデリングすること。すでにうまくいっている人をモデルにして学習するということです。

予備校などでたまにありますが、だれもが「すごい!」とうたうカリスマ講師がいて、その人が「こうやったらうまくいく!」という方法と同じことをしたらなんだか自分もできるようになっていた、ということがあります。学校でも、自分がすごいと思っている先生に言われた通りのことをしたら、できるようになったということがあります。これは、自分より先にうまくいっている人をモデルにして学習を進めているのです。

5. Production <成果>
成功する学習の最後のステップはまさに「成功を生み出す」ステップ。ちゃんと言われた通りにやっているのに、どんなに一生懸命がんばっても成果が出ない。「自分にはやっぱり無理だったんじゃないか」と落ち込んでしまう。この経験はきっと誰もがすることでしょう。誰もがするということは、裏を返せばそれが「当たり前」だということです。
ところが、大抵の場合ここであきらめてしまって結局うまくいかないままに終わってしまったということが世の中では非常に多いようです。あと一歩のところでやめてしまう。これは非常にもったいない。
自分が行き詰まっているということは、自分が行き詰まる地点までたどり着いたという証です。そこにたどり着いた時、学習時間を増やす、学習方法を変えてみる、落ち着いて今まで通り学習する・・・ いろいろな手段がありますが、それらの手段を通して成果を出すことが、「成功する学習」を生み出す最後の鍵です。つまり、うまくいっている人は皆「うまくいくまで続けた人」で、うまくいかなかった人は「うまくいくまで続けなかった人」だと言うことができるのです。

以上、「成功する自発的学習」のモデルを描いたわけですが、これはぼくが「科学」と信じる部分で、つまり「誰にでも当てはめることができる」ことだと考えています。

そもそもこの科学への探求は「自発的学習」から始めたわけですが、これを教育現場での「学習」あるいは「学び」に還元してあげると、現在抱えている「学習者にも教育者にも苦悩の種」という問題をより純粋な学習に捉え直し、より効果的な学習活動を提供することができるのではないかと思うのです。

「そんなこと口で言うのは簡単だし、みんな教育者は知っている!」という声が聞こえてくるようですが、知っていると実践するということは随分違うわけで、実際、教育現場からは「実践するのが難しい」という声が聞こえてきていますが、それは「難しい」にどう挑戦したらいいかその指針がないためで、それが故に難しいを難しいのままにして実行が先送りにされてしまっているがためであるようです。

それをいざ具体的に実行する上で、その根底としてどうしても明確にしておきたいのが、学習に対する自身の哲学であるとぼくは考えます。そこで、次に学習への哲学的一考察をここに私見ながら綴ろうと思います。



2.学習の哲学

ぼくは、哲学は「そもそもなぜ?」から始まると考えています。つまり、命を対象にした哲学は「そもそもなぜ人は生きているか」という根本的疑問から始まっており、そうなれば学習に対する哲学も「そもそもなぜ学習するか」という地点から始めていくのが妥当だと思うのです。

さて、ぼくたちはなぜ学習をするのでしょうか?
社会で生きていくため、大人になった時に恥をかかないため、よりよい大学に入るため、常識をつけるため、自分で考える力をつけるため・・
きっと、この質問を教育に携わっている方々に聞いたら色々な答えが返ってくるでしょう。どれももっとな理由の一つのようです。

けれど、その答えにさらに「なんで?」を投げかけ続けると、案外途中でその答えに詰まってしまうかもしれません。

「なんで学習するの?」ー自分で考える力をつけるためだよ。
「なんで自分で考える力が必要なの?」ー世の中には正しいことと間違っていることとが入り交じっているから、自分の答えを自分でみつけないといけないからだよ。
「なんで自分の答えを自分でみつけないといけないの?」ーう〜ん、自分の人生は自分のものだから、最終的には自分でなんでも決めないといけないからだよ。
「なんで自分で決めないといけないの?」ー。。。

もし自分が教育の現場にいて、学習者側にいる人(生徒)がこのような質問をしてきたらと考えると、これはなかなかスリリングな経験でしょう。

けれど、この「なぜ学習するのか」という本質的な問いに対して、先ほどの「自発的な学習」について考えると、案外に答えが出やすいのではないでしょうか。

ぼくは「なぜ学習するのか」の答え、つまり学習の目的の最終地点は「喜び、幸せ、満足」など上向きの感情の獲得だと考えています。そして、その上向きの感情を獲得するために2種類のソースがあると考えています。


一つは、自己成長(自身の喜び)です。
なにかを学び始めて、それがある特定のレベルに到達する。英語を勉強してテストで点が取れた、外国人と話ができた、先生に褒められた等、ある特定のレベルに自分が到達したことが確認できると、ぼくらは大きな喜びを感じることができます。そして、その瞬間「なんで学習していたんだろう?」という質問の答えを感じることができます。むしろ、その質問を自分に問わなくなる瞬間と言った方が正確なのかもしれません。
つまり、「なぜ学習するのか」という根源的な問いが自分の頭から離れた瞬間が、その答えを自分が感じている瞬間と言えるといって間違いではないと思うのです。そして、この自己成長から感じる感情こそが、その問いに対する答えだと言えるのです。

二つ目。これは教育者のみが感じられる非常に美しい部分だと思うのですが、それが自他成長(共有の喜び)です。
勉強していたことがやっと理解できた。なにかができるようになった。そんな自己成長からくる感情が自分の身体に広がった時、そこを目指してがんばっている人をみるとそれを助けてあげたくなる。そうした感情は、教育現場に身を置いている人に限らず、誰しもが持っている感情だとぼくは信じています。裏を返せば、誰しもが教育者であるということをぼくは信じています。
小さな子どもがおままごとで料理の仕方を教え合っている。問題が解けずに頭を抱えている子にクラスの友達が助けてあげようとしている。そんな光景を目にすると、なんだか微笑ましく心が暖かくなります。
そこには、自分が達成した時に感じた喜びや幸せを他の人と共有しようという意識が働いています。そしてそれが達成できた時、そこには自分だけで達成した以上の喜び、幸せが待っているのです。

これがぼくの学習の目的に対する哲学的考察で、そこから学習を定義すれば、
「自己成長と自他成長からくる大きな上向きの感情を知っていて、それに向かって努力を積み重ねること。」
となるでしょう。

以上が学習の哲学的側面ですが、この哲学という部分は10人いれば10人のパターンがあるわけで、「私には私の哲学があり、あなたにはあなたの哲学がある」という非常に平等で赴き深い本質をもっているのがこの哲学というものです。
そして、科学的考察の最後で言及した通り、この哲学が教育者の抱える実践の難しさの解決への最初の一石を投ずるものとぼくは信じるのです。

以上、つたない考察をここに記しました。
みなさんは学習について、どう考えますか?